第二部 二代目甕星 白村江戦後に日本史から抹消

第四章 星帝の国譲り

倭の五王

魏呉蜀ぎごしょくの三国時代以降、西暦280年に統一しん王朝が成立したものの、まもなく華北を匈奴きょうどに奪われ、再び王朝が乱立する時代となります

五世紀以降は北魏ほくぎ南宋なんそうによる南北朝の構図が、西暦589年のずいによる統一まで続きます

西暦413‐478年の間に、倭国からの使者が計11回入朝した記録が中国史書にあります

さんちんさいこうの倭の五王で、記紀と対応させ讃ー応神おうじん、珍ー仁徳にんとく、済ー允恭いんぎょう、興ー安康あんこう、武ー雄略ゆうりゃくと比定する説が有力です

稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣

日本の資料と照合すると、埼玉県稲荷山古墳の剣に刻まれた”獲加多支鹵大王”という文字を、”ワカタケルオオキミ”と読み、雄略と捉えるのが定説になっています

宋書倭国伝に記載された倭の五王のうち、少なくとも武=獲加多支鹵わかたける大王=雄略という可能性は高いと考えられています

しかし、記紀との人物対応にも異説があり、大和政権ではなく九州勢力の使者という説もあります

倭の五王は、明確な朝貢ちょうこう(貢物こうもつを献じて冠位を得る)を行っており、中国王朝の配下となっているため、記紀の歴史観とそぐわなくなります

武の国書は流暢な漢文を駆使していますが、「封国は…」と冊封国さくほうこくであることの明言から始まり、自らを「臣」と呼んでいます

倭の五王を大和政権の長に比定すると、少なくとも応神~雄略代は中国の冊封国となり、皇権がなかったことを認めるジレンマに陥ってしまうのです

「治天下」の範囲

鉄剣の銘文には「治天下」という文字があります

中国の観念でいうと天下を治めるのは中華皇帝に限られます。にも関わらず、倭国王が天下という言葉を使ったのは、倭国なりの自国中心史観が芽生えたためと解されています

中国の天下の観念には、実際の統治範囲を指す狭義の天下と、地上全体を指す広義の天下の二重の意味があり、両者を一致させるため歴代の中国政権が拡張指向を帯びるようになったと考えられています

倭の五王の統治範囲の観念を見ると、珍の代から倭・百済・新羅・任那・秦韓しんかん慕韓ぼかんの六国の軍事権があると自称しました

斉の代から朝鮮半島諸国の軍事権も認められ、武は「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東代将軍・倭王」と任命されています

朝鮮半島における実権があったか否かは別として、後年の記紀神話の大八島の範囲とは異なっています。五王が有していた統治観念は、日本列島(北海道と南西諸島を除く)に限られていなかったことが伺えます

名乗りなき使者

11回の入朝のうち、使者が貢物を献じただけの記録が3回あります。倭国からの使者というのみで、長の名前も入朝目的も不明です

倭国を名乗ったその3回の使者が、倭国のどこから来たのか特定できませんが、東国の政権(日高見国ひたかみこく?)だった可能性も否定できません

従来の学説では、東国勢力に外洋航行能力があったという想定に乏しく、中国に入朝するのは九州~近畿までの勢力とみなす傾向がありました

しかし、黒曜石の流通や国産み物語を考慮すると、縄文期から外洋航行は行われており、東国勢力から中国王朝への派遣も十分にありえたことです

使者が命を懸けて渡海し、賊の襲撃を回避しても、さらに危険なのが王宮内です。相手の懐に飛び込んだ状態で不審に思われれば、まな板の上の鯉です(後年日本も、元の使者を斬首したことがあります)

使者が名前を残さず目的も不詳というのは、かなり異様なことです。単なる親交目的だったとしても、派遣元の名前を残さなければ意味がありません

中国側の記載漏れだけでなく、派遣元の名前や目的を知られたくなかった可能性まで、踏み込んで想定する必要があると思われます

正体不明の使者の身元を特定することはできませんが、仮に、星帝からの使者だったとすると、情報収集を行うこと自体が目的で、名前を明らかにしたくない積極的な理由があったと考えることができます

始皇帝の野望を徐福から聞いた星帝が、名前や所在を明らかにせず隠密に情報収集を行っていたという解釈です

大和政権が宋に朝貢しながら東国への伸長を図り、5世紀後半には勢力が関東に及んでいた一方で、常陸の星帝は冠位を要請せず、情報収集目的で中国に使者を送っていたと考えられます

隋書倭国伝 第一回遣隋使

開皇かいこう二十年 注1、倭王の姓は阿毎あめ、字は多利思比孤たりしひこ、号して阿輩ケ弥あほけみ 注2というもの、使いを遣わしてけつ 注3いたらしむ。

じょう 注4、所司をして其の風俗を訪ねむ。使者言う、「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でてまつりごとを聴き、跏趺かふ 注5して坐す。日出ずれば便すなわち理務をめ、我が弟に委ねんと云う」と。

高祖 注6曰く、「此れはなはだ義理無し 注7」と。是れに於いてさとして之を改めむ。

注1 隋文帝の年号。西暦600年

注2 天帯彦大君あめたらしひこおおきみ

注3 王宮の門

注4、注6 文帝

注5 あぐら

注7 道理が通らない

本居宣長もとおりのりながの憤慨

隋書倭国伝に記載されている西暦600年の第一回遣隋使は、日本書紀には記述がありません

江戸時代の国学者で、古事記原理主義者とも言える本居宣長は、倭王の名を騙った偽使と断じました

全く大和朝廷らしからぬ使者の存在は、皇国史観を強調した大日本帝国の教科書でも記載されませんでした

現在の学説でも、西暦607年の第二回遣隋使と同じ厩戸皇子(聖徳太子)だったという解釈もありますが、未だに定説がない謎の使節とみなされています

第一回遣隋使が大和朝廷らしくない9つの理由

  1. 姓がある:日本の史書に記載がない阿毎あめ(天)氏の姓を名乗っている
  2. 王の性別が異なる:推古女君代だが、男性王に妻子がいると語っている
  3. 太子がいる:利歌弥多弗利りかみたふりという太子がいる
  4. イデオロギーが異なる:天(北辰)が兄で、日が弟だと言っている
  5. 婚姻形態が異なる:大和朝廷は血族婚だが、同姓婚を避けると言っている
  6. 官制が異なる:日本書紀で西暦603年制定とされる冠位十二階が、600年時点で既施行
  7. 後宮がある:600~700人の女官がいる後宮がある
  8. 地勢が異なる:水多く陸少ないと言い、内陸の奈良盆地らしくない。鵜飼いの記述もある
  9. 日本書紀が無視している

これをどのように解すれば大和朝廷の使節とみなせるのか、困難に思われます

アクロバティックな擁護を次々と重ねなければならず、本居宣長のように、偽使が攪乱目的ででたらめを語ったと断じた方がまだ救いがあります

個別に論じませんが、特に2と3が両立しません

厩戸皇子が、
太子なら男性王が不明⇔男性王なら太子が不明

この関係がトレードオフになります

後の中国史書を見ると、11世紀成立の新唐書では、用明代(西暦585‐587年)にあたるとされますが、隋書の西暦600年と合いません。14世紀成立の宋書では、用明の子である聖徳太子が遣使したと記述が変わります

現代の学説では、厩戸皇子を太子に当てて男性王を崇峻すしゅんとみる等諸説ありますが、どれも女王だと中国に侮られるので男性王を名乗ったという前提を要します(つまり、でたらめを語ったのは大和朝廷だったことになる)

一方、厩戸皇子を男性王に当てると、太子に該当する人物が特定できません

厩戸皇子の方が早く西暦622年に没し、6年後に推古女君が逝去すると、厩戸皇子の子である山背大兄王やましろのおおえのおう田村皇子たむらのおうじの間で後継問題が生じます。結果、629年に田村皇子が即位して舒明じょめい天皇となります

飛鳥時代の大和朝廷では、先君の死後に諸豪族が協議して次代を決めるならわしだったので、推古女君が後継指名しなかったのは通例でした

大和朝廷で立太子制度が始まるのは、西暦672年の壬申の乱を制した天武天皇代からですが、即位前に太子が逝去する等の異変が相次ぎ、制度が安定するのは781年即位の桓武天皇以降です

飛鳥時代で先君在位中に後継が定められたのは、生前に上宮太子かみつみやのたいしと呼ばれた、推古女君代の厩戸皇子が唯一の例外でした

厩戸皇子の立太子こそが大和朝廷の異状事態であり、何か特別な事情があったと考えるべきでしょう

太子難点
新唐書用明 —用明在位(AD585‐587)と遣使年が不一致。太子の記載なし
宋書用明厩戸皇子用明存命中に厩戸皇子は立太子されていない
崇峻説崇峻厩戸皇子崇峻在位(AD587‐592)と遣使年が不一致。王と太子の親子関係なし
推古説推古厩戸皇子推古が性別を偽ったことになる。王と太子の親子関係なし
厩戸皇子説厩戸皇子 —厩戸皇子は大和朝廷の長でない。太子が特定できない

阿毎あめ 多利思比孤たりしひこ 阿輩ケ弥あほけみは、自らを明けの明星と示唆している

天(北極星)を兄とし日を弟とするのは、明けの明星と解せます

日本神話で金星の化身とされる天津甕星の使節と考えるのが妥当です

明けの明星の化身である天津甕星が、日の御子として厩戸皇子を認め、政権委譲を決意した記録を中国史書に残したものでした

国書を持たなかった理由

倭王武が格調高い漢文の国書を提出したのは、冠位を賜る目的があったためです。中国から評価を得るためには、その形式に従って自らの能力を示す必要があります

ところが、この使節は国書を持たず、言っている内容も不可解で、自らの能力を誇示する気配が全く感じられません

倭王とへりくだった表現を使っているのは、中国側を刺激しないためと思われます。持てる能力を示さず、あえて侮らせていたのではないでしょうか

国書を持たなかったのは、後でじっくり詮索されないよう書面を残さなかった可能性も考えられます

皇権委譲

「日出れば便ち理務を停め、我が弟に委ねん」と宣言しています。日々の政務の執り方としては非常に奇妙ですが、政権交代を天体の運行になぞらえた暗号文でした

使者の口上を受けた文帝は、理が通らないので改めるよう訓戒しました

甕星の狙いは違わず、中国側に解読されないまま記録に残すことに成功しました

推定西暦603年にタラシヒコの称号、冠位十二階制、草薙の剣が常陸(日高見国)から大和に委譲されました

同年に、推古女君が小墾田宮おはりだのみやの造営に着手したのは、この政権交代を背景にしていたと考えられます

大和朝廷初の政庁となる小墾田宮は政務所であり、後の平城京のような居住区はありません。江戸城大奥に匹敵する600~700人の女官がいる後宮の存在は、かなり長期の安定政権があったことを示唆します

冠位十二階制の記載が、西暦600年の隋書と603年の日本書紀で食い違っていますが、その間に政権交代があったと想定すると、隋書も日本書紀も共に真と判定されます

推古女君の存命下で厩戸皇子が太子とされたのは、大和朝廷内部の制度によるものではなく、外部からの後継指名だった考えると符号が合います

甕星の決意

甕星がこのタイミングで使者を送ったのには、二つの理由が考えられます

国外的には、西暦581年に、三国時代以降混乱していた中国で、300年ぶりの強大な統一王朝となる隋が建国したことです

国内的には、厩戸皇子という任せるに足りる人物が登場したことです

甕星は、並立してしまった皇位を中国王朝から守るために、自ら表舞台より身を引きました

そして、いつか日本の歴史から消されることも覚悟し、後世に伝える暗号メッセージを国外に残したのです

国譲りの舞台

天津甕星は慎重を期し、第一回遣隋使の帰りを待って報告を受けてから国譲りを行いました

国譲りの舞台は尾張熱田の地で、諸豪族立ち合いの下で行われたと思われます

熱田が舞台だったと推測する根拠は、後に天武天皇が病床に伏せた際、草薙の剣の祟りとの占いが出てすぐ、手元にあった剣を熱田に移した出来事からです

大和朝廷にとって、草薙の剣が元来熱田にあったものだったからこそ、天武天皇は本来場所に戻したのでしょう(第六章で再論)

推定603年に熱田の地で、天津甕星から厩戸皇子へ統治権(皇権)が移管され、それに伴って草薙の剣、帯彦の称号、冠位十二階の制が常陸(日高見国)から大和朝廷に移りました

そこには、少なくとも出雲族と尾張族が立ち会ったと思われます

出雲族が立ち会ったと推測する主要な根拠は、記紀で国譲りの主体とされたことです(大国主の名義貸し。後述)

また、熱田神宮の表参道入口には、古社としては珍しく、大国主とその息子の事代主ことしろぬしを祀る上知我麻かみちかま神社が建っており、出雲族の関わりの深さを伺わせます

尾張族の出自

尾張族は、天火明命あめのほあかりのみことを祖神とし、奈良葛城かつらぎ地方から入植して土地を拓いたとされますが、記紀創話に伴って出自が書き換えられたものと思われます

后妃こうひを輩出し、壬申の乱では大海人皇子おおあまのおうじを後援して天武天皇即位に多大な貢献を果たし、代々熱田神宮の宮司を務めます

考古学的には、尾張三河地方では各地の縄文土器が出土しており、農耕以前に縄文時代から交易の中心地として栄えていたと考えられます

尾張族は元々星神部族の一派で、常陸の星帝と大和朝廷の橋渡し役となったと推測されます

中京地区の星宮と星祭り

熱田神宮を取り囲むように星神系の祭社があります(名古屋市南区星宮社、西区星神社、清須市星の宮)

中区には多奈波太神社があり、一宮市や安城市では盛大な七夕祭りが行われています

隕石特異点 星宮社

熱田神宮にほど近い名古屋市南区の星宮社は、舒明天皇代の西暦637年創建です。同地に隕石が落ちたため、天津甕星を祀る神社が立てられました

星宮社があることから、星崎という地名が付きました

境内には上知我麻かみちかま神社と下知我麻しもちかま神社があり、熱田神宮内の同名の末社の元となったとされます

西暦935年、1205年、1632年にも周辺に隕石が落ちたとされ、計4回隕石落下の言い伝えがあります

1632年の石は喚続よびつぎ神社に残され、鑑定を受けて隕石として認定されています(南野隕石)

前3回の石は残されていませんが、言い伝え通り本当に4回隕石が落ちたのなら、隕石落下確率として著しい偏りがあることになります

つまり、通常の確率分布から逸脱した隕石特異点と言えるでしょう

天津甕星あまつみかぼしという名前は、星神の、明けの明星の化身としての側面に着目したものです。一方、別名の天香香背男あめのかがせおは、隕石の使い手としての呼び方です

隕石が落ちたため星神を祀る神社が造られた別の例として、出雲松江の星上山ほしかみやま那富乃夜なほのや神社があります(祭神 星神香香背男命ほしのかがせおのみこと

最後の星帝 天津甕星が、隕石を使って熱田や出雲に何かを伝えたかったのかもしれません

西暦935年は、平将門の一族私闘が拡大して、叔父の平国香たいらのくにかが討ち取られた年です

熱田神宮で東国平氏の乱の鎮静が祈願された時、星宮社でも祈願が行われ、その際当地に隕石が落ちたと言われます

この隕石落下が事実かわかりませんが、七星紋をシンボルとする星宮社は、天津甕星ー(隕石)ー舒明天皇ー草薙の剣ー熱田神宮ー出雲族ー(隕石)ー北辰信仰ー平将門という繋がりを今に伝えています

隋書、唐書の阿毎氏

隋書倭国伝では、阿毎氏の使者が阿蘇山の噴火について語った記載があります

隋は高句麗遠征で失敗を繰り返し、建国から40年足らずの西暦618年に滅亡します

隋の後を継いだ唐は西暦618‐907年と長期存続し、940年頃に成立した旧唐書くとうじょと1060年頃に成立した新唐書しんとうじょの二種類の国史が作られました

旧唐書では、従来の倭国に加え新たに登場した日本国が併記されています

倭国伝では、王の名は阿毎氏と従来の記述が踏襲されています

日本伝では、統治者の出自や名前が明らかではありませんが、西暦703年の入朝記録から始まっており、大和朝廷が初めて日本国号を申し出たものです

新唐書では、倭国伝がなくなり日本伝に統一されます。それまでの倭国伝に登場していた阿毎氏は、筑紫城に居住すると記載されています

隋書や新旧唐書の記載を見ると、阿毎氏が九州に所在する勢力だったことが明らかです

九州にあった倭国の政権が、後に大和政権に併合され、日本という統一国家が出現したかのように見えます

阿毎氏が九州に所在するように見せかけることが、中国の関心を東国から反らし、身を隠すための星帝天氏の策略だったのです

阿蘇の煙幕

イザナギとイザナミの国産み物語には、東シナ海の五島列島や男女群島が含まれており、縄文時代から日本列島全体を掌握する勢力が存在していたことは疑いありません

東国を本拠地としていた天氏は、阿蘇山が噴火を繰り返していることも知っていたと考えられます

阿毎氏の使者が、隋朝で阿蘇の噴火について語ったからといって、阿毎氏が阿蘇の近くに住んでいたとは限りません

阿蘇の最後の破局噴火は旧石器時代の9万年前で、当時現生人類はまだ日本に生息していませんでした

現生人類が古本州島に到達した4万年前以降で、九州を壊滅させたのは、7200年前の鬼界カルデラの破局噴火です。その噴火により九州の縄文人はほぼ全滅し、降灰は北海道まで達したとされます

鬼界カルデラは薩摩半島と屋久島の間の海底火山で、当時の人は探り当てることはできなかったと思われますが、九州壊滅を疑われるのは桜島や霧島という南九州の火山です

中部九州には島原や九重連山、由布岳もあり、阿蘇だけが危険なのではありません

阿蘇が活発に噴火し、雄大な光景を有するのは当時も今も変わらぬ事実です

しかし、隋朝に登った使者がわざわざそのことを陳述したのは、何か他の理由があったかもしれないのです

命を懸けた外交使節の一言一句に無造作な言葉はなく、何らかの意図が込められていると見た方が良いでしょう

噴煙を上げる阿蘇山
天氏の使者は、隋朝で阿蘇噴火の光景を語り、倭王が九州にいるようにミスリードした

筑紫の隠れ蓑

天氏は推定西暦603年に皇権を委譲して、その後中国へ使者を派遣したか不明ですが、西暦1060年頃に成立した新唐書で新情報が追加されます

倭国の名がなくなり日本国号に統一された新唐書に、阿毎氏は筑紫城に居住するとの記載があります

筑紫(竹斯ちくし・つくし)の地名は隋書で初登場します。倭国に上陸して詳細に地名を報告した魏志倭人伝では見当たりません

対馬や壱岐、松浦や伊都といった現在にも伝わる北部九州の地名は、すでに魏の時代に確認できます

しかし、天孫降臨の舞台となり日本神話で重要な役割を果たす筑紫の地名が魏志にないのはなぜでしょうか?

以下の三点から、「筑紫」の地名は自然発祥でなく、人為的な可能性があります

1.3世紀成立の魏志に記載がない

2.地名が指す範囲に揺らぎがある

3.地名の由緒が不自然

古事記や日本書紀では、イザナギとイザナミの国産みの際に筑紫島が生まれたとされます。この時点では、筑紫は九州島全体を指す地名です

ところが、すぐ後段で筑紫島の中に筑紫、とよ熊襲くまその4カ国が含まれるとされ、その観点では北部九州の一部地域を指すことになります

「筑紫」の地名の二重性のため、瓊瓊杵尊ににぎのみことが降り立った筑紫の日向ひむか高千穂たかちほの峰の所在地に異説が出ることとなります

普通に考えれば、宮崎県の霧島山系の高千穂峰と解せますが、福岡県にも日向峠ひゅうがとうげという地名があります。峠の周りに高地山こうちやま高祖山たかすやまがあり、紛らわしさを増しています

宮崎県説では、筑紫の地名は九州島全体を指すと考えられます。福岡県説では、北部九州の一地域名です

日本神話で極めて重要な地名であるにも関わらず、指示範囲が不鮮明で、さらに地名の由緒が極めて不自然です

一説では、政庁(大宰府か?)に続く道の敷石が紫色だったために、紫の築石つきいし筑紫ちくしという国名になったと伝わります

これは、天守閣に金色のしゃちが付いているために、名古屋城の周辺を金鯱国と呼ぶようになった、というぐらい怪しげな由緒です

政庁が先にあるなら既に拠点が形成されていたということであり、国名が後から付けられたならば、地名が改変されたことを意味します

さらに、紫の築石が転じて筑紫の地名になったという伝承は、国産み物語における筑紫島の名前と矛盾します

北部九州の一地域名が拡張されて島全体の呼称になったと考えると、国産みの時点で筑紫島という地名はなかったはずです

筑紫島という呼称が先に自然発祥していたならば、(大宰府)政庁前の築石の色と無関係です

もう一つの筑紫、紫峰しほう筑波つくば

日本国内には、もう一つ「筑紫つくし」と呼ばれる場所があります。古来より紫峰と呼ばれる茨城県の筑波山です

朝焼けの紫峰筑波

筑波山が朝夕の日を浴びて紫に染まるという、こちらの筑紫は紛れもない自然発祥概念です

ごく近年のことになりますが、西暦1992年に完成した山麓のダム湖には「つくし湖」という名前が付けられました

筑波という地名は、常陸国風土記によると以前「紀の国」だったものを、第10代崇神すじん朝の国造の筑箪命つくばのみことが自らの名を取って命名したとされます

魏の使者が上陸し、捜索の網が近づいてきたことを知った天氏は、東国にいることを隠蔽するために地名の操作を行いました

※為政者による地名操作はごく普通のことで、一例を挙げると、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルグはソ連時代にレニングラードと改名され、現在のロシアで旧名に戻された

3世紀以降に、本拠地だった常陸の「筑紫」の地名を九州に移入したのです

西暦527年の磐井いわいの乱で、筑紫の地名が国内史に登場することから、その頃には定着していたかもしれません

九州の「筑紫」の地名由緒が怪しげで指示範囲が揺れるのも、自然発祥ではなく人為的な地名移入だったためです。後の記紀神話で九州島全体のことを筑紫島と呼んだのは、由緒が古いことを強調するための遡及、拡張だったと考えられます

地名を移入した後、天氏は「筑紫つくし」に居住しており、阿蘇山が噴火を繰り返すと中国王朝に伝えました

どちらも嘘ではありませんが、中国王朝の目を欺くため、九州に所在するかのように見せかけた攪乱情報でした

常陸に日本の古代文明の中心があったという考えは、古くには江戸時代中期の幕政家・学者である新井白石あらいはくせき(西暦1657-1725年)が提唱しています

白石は『古史通』の中で、天御中主命が在する高天原は常陸であると主張しました


コラム:鹿島神宮のレイライン

鹿島神宮には武甕槌大御神たけみかづちおおみかみが祀られています

経津主大御神ふつぬしおおみかみとともに葦原中国あしわらのなかつくに平定を命じられた二柱は、高天原たかあまはらから出雲に降り立ち、以前から治めていた国津神くにつかみ大国主命おおくにぬしのかみ(大己貴命おおなむちのかみ)に国を譲るよう迫ります

大国主は紆余曲折の末に国譲りに同意しますが、その子の建御名方神たけみなかたのかみは拒否し、武甕槌との力比べになります

力比べは武甕槌が圧勝し、逃げ出した建御名方は諏訪に封じ込められます

原住の国津神を殲滅するようなことはなく、大国主の出雲大社、建御名方の諏訪大社が造られ、今なお手厚く祀られています

国譲りに功があった武甕槌と経津主は、それぞれ鹿島と香取の地に祀られました(?)

こうして、明治より以前に神宮と呼ばれていた、古代三神宮のうち鹿島神宮と香取神宮は、現在の利根川下流の極めて接近した場所に造られました(???)

鹿島の武甕槌は、今も諏訪の建御名方を睨んでいると言われます

Google mapで検証してみました

鹿島神宮本殿は真北ではなく、微妙に北北西を向いています

本殿中の御神体は、日の出の東を向いているとされます。つまり、西に当たる諏訪には背を向けた形になっています

本殿の向き60㎞先に古墳があり、明治15年(西暦1882年)、それまで境内にあった末社 星神社が移設されました(現在の常陸太田市 星神社古墳)

また、毎年星鎮祭ほしづめさいを執り行っている香取神宮は、鹿島神宮の正反対、真南ではなく微妙に南南東を向いています

コラム冒頭の国譲りのストーリーは、古事記及び日本書紀本文によっています

日本書紀の別伝では、経津主と武甕槌はまず天津甕星を制圧すべしと言ったとされます

一説によると、鹿島神宮と香取神宮には、なぜその位置にその向きで建てられているのか、秘伝の口承が残されていると言われます