第二部 二代目甕星 白村江戦後に日本史から抹消

第五章 進撃のヤマト

推古朝の華々しい内外政策

西暦603年の小墾田宮おはりだのみや造営以降、推古朝は次々と政策を打ち出して大和朝廷の政治基盤を構築します

西暦603年に冠位十二階、604年に十七条憲法を制定し、607年に第二回遣隋使を派遣します

従来の学説では、第一回遣隋使で隋文帝に「義理なし」と諭されたため、その訓告を受け入れて官制を整えたとされます

その解釈に従うと、西暦600年に中国皇帝に諭されて反省した大和朝廷が、わずか7年後に「日出る処の天子…」と対等関係を謳った使者を発したことになります

日本書紀に記載がないのは、第一回遣隋使での訓告を恥じて、無かったことにしたのだとされます

このように、2回の遣隋使を同一派遣元からの使者と捉えると、大和朝廷は極めて幼稚かつ傲慢な、矛盾に満ちた外交態度を取ったことになってしまいます

イデオロギー変革に対する解釈

官制整備はともかくとして、”天を兄とし、日を弟とする”というアイデンティティーから、たった7年後に自らを日と同一視するような、急激なイデオロギー変革が生じたとは思われません

古代でも現代でも、政体のイデオロギー変革は短期に起こりうるものではありません

短期に生じた場合、クーデターや革命といった激動を伴いますが、西暦600‐607年の間に大和朝廷内部でそのような動きがあったことは見て取れません

明けの明星から日の御子へ、非流血的な政権交代(=国譲り)があったと解する方が整合性が取れます

変わらぬ婚姻形態

イデオロギーと並んで、短期には変わりえないのが婚姻形態です

従来の学説では、同姓婚を避けるという第一回遣隋使の言葉は、大和朝廷家自身ではなく、臣下や一般の習俗について語ったものと解釈されます

大和朝廷の血族婚の風習はその後も長く続き、8世紀後半に桓武天皇が藤原家から入籍を受ける際にも、弁明を述べねばなりませんでした

政権運営には中国皇帝の戒告に恥じ入って官制を改めたとされる大和朝廷ですが、婚姻形態に関しては、変更する意志が全くなかったかのように見えます

前提となる、第一回目遣隋使で戒告を受け政治や社会の制度を改めた、という解釈を見直した方が良いように思われます

2度の遣隋使の比較

第一回(西暦600年)第二回(西暦607年)
From天津甕星厩戸皇子
To初代文帝二代よう
Name阿毎あめ 多利思比孤たりしひこ 阿輩ケ弥あほけみ多利思比孤たりしひこ
Media口頭?国書
Identity天を以って兄と為し、日を以って弟と為す日出る処の天子
Message日出ずれば理務を停め、我が弟に委ねん書を日没する処の天子に致す

第一回遣隋使の派遣元を天津甕星に比定すれば、西暦600‐607年の間に政権移行が生じたことが伺われます

・一回目のメッセージは”日が出たら政務を止めて後継者に委ねる”と読めます

・明けの明星の化身である天津甕星が、日嗣ひつぎの御子として厩戸皇子を認め、統治権と帯彦たらしひこの称号を譲った(=日が出たため委ねた)と解せます

・ここで無血革命が生じたため、厩戸皇子は天子を名乗る資格を得ました

・それを反映して、二回目では自ら”日出る処の天子”と称しています

・一回目の名義が天帯彦大王おめたらしひこおおきみで、二回目が単なる帯彦なのは、厩戸皇子は天氏でなく大王でもないためです(大和政権の長は推古女君のまま)

怒りの煬帝

第二回の派遣先の煬帝は二代目のため、革命を達した初代のみを天子とする中国皇帝の規則上、天子ではありません

厩戸皇子煬帝
天子だが皇帝でない皇帝だが天子でない
対等関係を主張
(自らを上に置くほのめかし)
冊封国と認識
(無礼と怒る)

大和朝廷が隋朝の代替わりを知らなかったのか、両者を同じ「天子」に揃えるため知っていて無視したのか不明です

いずれにせよ、煬帝の怒りに無理はありません。現代の基準から見ても、第二回遣隋使の国書は礼儀を欠きます

対等関係を基礎とする現代の個人や法人間のやり取りでも、文中で相手の名前を先に出すのが通例です

冒頭でいきなり自己言及し、その後に受取人の記事を続ける手紙が来たら、非常識と感じることでしょう

「日出る」と「日没する」という表現は、仏教的見地で東西の方角を表すため、非礼に該当しないという解釈がありますが、表現以前に、自分を先置する文書形式として良識を欠いています

政治的に正しい遣隋使国書 

日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々。

日没する 注1処の帝 注2へ、

  ※相手を先に書く

 謹んで書を日出る処の天子 注3より奉る。

  ※改行して自分を一段下げる

 御恙無き哉。

  ※丁寧に

注1 「日没する」が仏教的に非礼でないとの解釈に従い残した

注2 煬帝は天子でないため「帝」とした

注3 送信者が天子である根拠が示されていないが残した。倭王武を基準とするなら「臣」とすべき

中国の規則では天命を受けた天子が初代皇帝に就く。先帝が徳を失い自らが天命を受けたと表明すれば、革命宣言とみなされる

皇帝だが天子でない者(=二代目以降の皇帝)と、天子だが皇帝でない者(=革命宣言者)は自動的に敵対関係になるが、敵対を避けるなら相手を立てるべき

文帝から煬帝への代替わりは西暦604年です。大和朝廷は代替わりを知っていて、あえて原文の書き方をしたのではないでしょうか

先に皇帝を名乗っている者に対し、自分が天子であると表明することは革命宣言であり、宣戦布告に等しい行為です

お互い「天子」と対等を装いつつ、相手より先に自己言及するという非礼を意図的に行っているように見受けられます(対等なら相手を立てるべき)

原文は、明確な宣戦布告を避けながら、暗に自分の方が上だと表現しているのです

返書紛失事件

蛮夷ばんいの書、無礼」と煬帝は憤りつつも、翌年帰国する小野妹子に返書を渡し、使者裴清はいせいを倭国に派遣しました

当時隋は高句麗遠征に苦慮しており、倭国との関係悪化を避けたかったため、怒りを抑えて厚遇したと考えらえています

帰国する過程で大問題が発生します。途中の百済で返書を奪われてしまい、空手で戻ってきたというのです

隋から倭国への返書が、隋の使者も同行するなか百済で奪われたというのが真実なら、3国間の重大な外交問題です

そのような外交問題が勃発した痕跡はなく、怒った煬帝の返書の内容が不都合だったため途中で奪われたことにした、というのが定説です

その裏付けとして、大失態を犯したはずの妹子は咎めを受けず、裴清の帰国に同伴してもう一度隋に派遣されました

妹子の困惑

倭国から送った国書が無礼に思われたため、隋からの返書に屈辱的な内容が含まれていたという見方も、十分に納得できるものです

しかし、その解釈に欠けているのは、妹子が隋朝に上がった際に、7年前の倭国使者について質問を受けたであろうことです

皇帝は代替わりしているものの、わずか7年前の使者と直接接した官吏がたくさんいたことでしょう

発言内容が余りにも違う前回使者のことを尋ねられ、妹子はなんと答えたのでしょうか

そもそも、妹子は7年前に倭国から使者が入朝していたことを、知っていたのかどうか、怪しいところです

煬帝の不興を買うのは覚悟していたかもしれませんが、何のことやら全くわからない先件について弁解せねばならなくなったのです

例えば、「7年前に『日の出前に政務をとって、あぐらをかいて座る。日が出たら仕事を止めて、弟に任せる』と言っていたが、どういうことか?」と尋ねられるのです

知らぬ存ぜぬを通すしかなかったのかもしれません

第一回の使者の口上は、中国側に理解されないよう暗号化された後世へのメッセージです。禅問答のような内容を尋ねられた妹子の困惑は、いかばかりだったでしょうか

煬帝からの返書が、倭国を見下した屈辱的な文面だった可能性と合わせて、7年前の使者の発言を確かめる質問が含まれていたことも、想定しなければならないでしょう

後年、日本書紀で無視された第一回遣隋使の存在こそが、大和朝廷にとって不都合だったと考えられます

第一回遣隋使は、天津甕星が皇権を譲るに際し、委譲相手である国内の大和朝廷を出し抜き、皇権を脅かす敵外国である当の中国の目を欺いて、中国史書に記録を残したものです

二重の幻惑を掛けた高度な暗号化ゆえに、その後1400年誰にも解読されませんでした

厩戸皇子の先没

大和朝廷にとって大誤算だったのが、推古女君より先に、西暦622年に上宮太子かみつみやのたいし厩戸皇子が亡くなってしまったことです(574年生、享年49歳)

当時として早逝だったわけではありません。推古が存外に長命だったのです(西暦554年生‐628年没、享年75歳)

飛鳥時代初期の大和朝廷に、生前退位も立太子制度もありませんでした

失政があっても退位による交替ができないが故に、推古先代の崇峻は暗殺されねばならなかったという見方もあります

推古女君は、厩戸皇子に大王の座を譲ることができず、皇子が先に亡くなっても代わりの後継者を指名することができませんでした

初期大和朝廷を支えた三頭体制の一角、蘇我馬子そがのうまこも西暦626年に逝去しました

西暦628年に推古女君が小墾田宮おはりだのみやで没する際、田村皇子と、厩戸皇子の子である山背大兄王やましろのおおえのおうの両方に訓示を授けたとされます

初代日帝 舒明じょめい天皇

厩戸皇子が推古女君より先に亡くなったことで、推定西暦603年に星帝から引き継いだ皇権が、宙に浮いた形になってしまいました

田村皇子と山背大兄王の間で武力衝突は起こらず、629年に田村皇子が即位して舒明じょめい天皇となります。敏達の子であり舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこは、皇位に就かなかったものの、皇祖大兄すめみおやのおおえと呼ばれました

この時、実権は馬子の後を継いだ蘇我蝦夷そがのえみしにあったとされます

田村皇子は、即位前に、厩戸皇子の足跡を辿るように播磨へ旅に出ます。皇権を得た天子である厩戸皇子に、自らをなぞらえようとしたのではないでしょうか

しかし、人物の器量はともかくとして、皇権を得たのは厩戸皇子であって、初代皇帝が天子ではない形態になってしまいました

女君の治世下で、皇権を得た天子が即位せず、その遠縁者が初代皇位に就くという複雑な経緯は、後に天孫降臨のモデルとなりました

大和朝廷
(AD590-630年)
記紀創話
(AD680-720年)
女君推古天照
黄泉よみへ追放崇峻素戔嗚すさのお
天子厩戸皇子瓊瓊杵尊ににぎのみこと
初代皇位舒明天皇神武

古事記の記載が推古で終わっているのは、そこまでの皇権が創作だったためです

つまり、初代神武~三十三代推古まで、古事記に記載されている天皇は全て虚構でした

大和朝廷系図

現在の学術界では、具体的記述に乏しい二代綏靖すいぜい~九代開化かいかまで、該当する実在人物がいなかったとする欠史八代説や、越前出身の二十六代継体けいたいで系統が変わったとする王朝交代説等が議論されています

戦前とは違い、記紀の記述をそのまま史実とみなすわけではない風潮になっています

しかし、天武天皇の指示から40年を要した歴史改変事業は、後世の人間の想像をはるかに超えた大掛かりなものでした

欠史八代説や王朝交代説は、木を見て森を見ず。古事記という森全体が幻だったのです

天命拝受に関する論理的補足

A. 厩戸皇子が「天子」を称した(西暦607年第二回遣隋使)

B. 瓊瓊杵尊ににぎのみこと葦原中原国あしわらなかつくにの統治権を譲り受けた(西暦712~720年記紀)

天命を受けて統治権を得たとする「天子」の語義を踏まえると、隋書Aと記紀Bの記述は両立しません

Aが真ならBは後年の作話で、Bが真ならAは妄言です

記紀を史実とみなすなら、第二回遣隋使で、厩戸皇子(大和朝廷)あるいは大和朝廷でない何者かが、のぼせ上った妄言を中国王朝に国書で申し入れたことになります

しかし、外ならぬ日本書紀で、諸豪族に残されている伝承に異説が多いため訂正すると述べられており、従来の史書が棄却され歴史改変が行われた経緯が確認できます

つまり、Aが真でBが偽と判定されます

飛鳥時代の東アジア情勢

隋の初代文帝は西暦598年、二代目煬帝は612年に高句麗遠征を行いますが、大敗を喫します。さらに613年と614年に出兵を行いますが、国内で反乱が起こり撤退します

権威が失墜した煬帝は家臣によって暗殺されます。煬帝のいとこであった李淵は実権を掌握し、傀儡の三代目恭帝に禅譲を迫り、唐を建国します(618年初代高祖)

二代目皇帝(太宗)の頃に中国国内が安定し、644年に高句麗遠征を行いますが、またしても失敗します

高句麗は百済と同盟し、655年に新羅を攻めます。新羅は唐と同盟し反攻、挟撃された百済の首都扶余ふよは陥落して660年に滅亡します

唐軍の主力が引き上げて手薄になったため、百済の遺臣が再興に立ちあがります

倭国にいた百済王の遺子豊璋ほうしょうが帰還し、663年に唐・新羅と倭・旧百済が衝突します

白村江の戦いです。当初、日本の指揮官は女帝の斉明天皇でしたが、筑紫朝倉宮に滞在中に没し、以後中大兄皇子なかのおおえのおうじが即位しないまま指揮をとりました(称制)

なぜ勝てると思ったのか?

倭国が出兵した理由は、現地で復興のため戦っていた百済遺臣から、豊璋の帰還と援軍の要請があったためとされます

大和朝廷と百済は300年程の長い間友好関係にありました。百済からの渡来人も多数おり、政策決定にも関与していたと考えられます

その観点から見ると、百済再興のために注力したことも不思議ではありません。しかし、百済は既に滅亡しており、例えかつて同盟関係にあったとしても、援軍派兵の義務も消滅していました

長年の厚誼や義理、既得権益の回復や勢力伸長など、出兵の理由はいくつも挙げられます。新羅を討つのが目的であり、唐と戦う意図はなかったという説もあります

中国側の旧唐書では、唐水軍と倭国船団が偶然に白村江で遭遇し、なし崩し的に交戦となり倭が大敗したと記載されています。日本書紀の記載も概ね一致し、倭と新羅は交戦していません

そもそも、倭国に海戦する意図があったのかも不明です。倭国の船は戦闘用ではなく輸送船で、上陸して陸戦する前に輸送船団が殲滅されたという可能性もあります

従来の学説では、出兵理由はいくつか挙げられていますが、いずれにしても勝算がどこにあったのか判然としません

大和朝廷が、楽観的な見込みの甘さから何となく勝てると思っていたとしか説明できないのです

(以下 編集中)