第一部 初代牽牛 海面上昇により中国史から失踪 

第二章 海面上昇と日中神話分化

日本列島の形成① 内的観察:イザナギ/イザナミの国産み物語

7万年前に始まった最終氷期は、2万年前に最寒冷期を迎え、海面は現在より120m低かったとされます。氷河期は1万年前に終息し、6000年前頃は現在より温暖となり、海面が5m高かったと考えられています(縄文海進)

地球規模の気候変動が判明するにつれ、イザナギ/イザナミの国産み物語は、古代人の荒唐無稽な空想でなく、実際に起こった海面上昇という出来事に根差していたと解されるようになりました

古事記や日本書紀(記紀)では、イザナギとイザナミが四国や九州、本州といった大八島を産んで日本列島が出来たとされます

国産み物語が海面上昇という史実に根差していたと解すると、それを観察して伝承した者がいたことになります。それは誰でしょうか?

記紀には、内水面の淡路島だけでなく隠岐や壱岐対馬等の記述もあり、海面上昇が進んでいく長期間に渡って外洋を巡察していた者が存在していたと伺われます

弥生時代に農耕を携えて来たとされる渡来人ではありえません。氷河期から古本州島に居住していた縄文人としか考えられないのです

日本列島の形成過程②:外的観察 天の川伝説

2万年前の最寒冷期にも対馬海峡と津軽海峡に水路が残ったため、大陸と極めて接近していたものの、古本州島は陸続きにはなりませんでした

天の川
2万年前の最寒冷期にも対馬海峡に水路があった

古本州島から四国や九州が分離する様子を内的に観察し、日本の国内神話として伝承したのが、縄文時代から在住していた星神部族でした

一方、古本州島が星神(星帝)を乗せたまま大陸から遠ざかっていった様子を記述したのが、中国で発祥した天の川伝説でした

つまり、日本と中国の超古代神話は、海面上昇による日本列島形成という同一事象を、外的⇔内的という異なった視点で観察したものだったのです

天の川伝説は、大陸から見れば水域のすぐ東隣りにいたはずの星神(星帝)が、いつの間にか水域が広がって往来が難しくなった史実を、天空に投影した神話だったのです

日中未分化時代の痕跡

氷河期に古本州島と大陸が一体化していたことは、同期した土器発祥年代、同一の信仰対象(北辰ほくしん信仰)と神話コンテンツ(天の川伝説と国産み物語)の3点に痕跡を見ることができます

※土器については、より古いものが他地域で出土する可能性もあり、今後の考古学の発展を見守る必要があります。また、1万5000年前の日中の土器の様式の違いなどが明らかになれば、それぞれが独立した発祥と判断されえます

北極星を天の中心として崇める北辰信仰は、中国の天帝観念として知られています。宇宙を治めるのは天帝であり、その命を受けた天子が地上を治める中華皇帝となります

北辰信仰は民間の道教として普及し、中原を統一した秦の嬴政えいせいが始皇帝として立ち、政治支配の正当性を保障する根本概念となりました

日本では、記紀の始原神が天御中主神あめのみなかぬしのかみで北極星の化身とされます

新唐書には、倭王阿毎あめ氏の初代が天御中主だと記されています

しかし、記紀神話では、天御中主神を含む原初の神々は別天津神ことあまつかみとして分類され、現在の学説において、具体的な記述がない抽象的存在とみなされています

中国史書に登場する阿毎氏の名前も、記紀を含む日本の古文書には一切登場しません

日本の北辰信仰は、道教から取り入れた外来の借用観念というのが従来の解釈でした

北辰信仰は関東や東北に多く見られ、中世に仏教の妙見みょうけん信仰と混淆した星宮神社が北関東を中心に多数あります。飛鳥時代初期建立の古刹こせつ 浅草寺せんそうじでも、星供養会ほしくようえと称して北辰を祀っています

北辰信仰が、外来の道教や仏教の借用観念であるとすれば、なぜ大陸に近い西日本ではなく東日本に根付いているのか不思議に思われます

日中神話分化

北辰信仰の主宰者は、常陸に本拠地があった星神だったのです

古代中国で、明確に天帝から指名を受けたとされたのは、水域の東にいた星神 牽牛でした。海面上昇により牽牛が訪れなくなった後、大陸側に残った北辰信仰が発展したものが道教でした

道教を含む中国思想には、古代こそが理想的であり、時代が下れば下るほど堕落していくという上代の理想化があります

中国が上代を懐かしむ背景には、大陸と古本州島が近接し、水域の東にいる星神が訪れやすかった氷河期の記憶があったのです

現在の日本には、文化は西の大陸から流入してきたものという固定観念があります

しかし、更に遡った氷河期には、星神が住む古本州島が文化の中心(中華)であり、東から西へという文化の流れがありました

北辰信仰の系統分岐

北辰信仰の系統分岐

星神が訪れなくなった中国側の動向が、第三章の主題になります

一方、星神の本拠地だった日本では、飛鳥時代後期に太陽信仰にとって代わられ、北辰信仰は隅に追いやられます

記紀編纂を命じた天武天皇自身は、道教用語を用いて天皇上帝てんこうじょうてい(北辰)や東王父とうおうふ西王母せいおうぼに国家鎮護を祈願しており、現在のような神道は成立していませんでした

それがいかに太陽信仰に置き換わっていくかの経緯が、第二部の主題となります

牽牛と織女の邂逅

国という概念がまだなく、大陸と古本州島が文化的に一体化していた氷河期が1万年前に終息しました。海面上昇によって対馬海峡が広がり、大陸棚だった黄海が出現して往来が困難になります

大陸側の発展は著しく、農耕や畜産、絹布けんぷ、文字、青銅器や鉄器の製作など次々と新たな発明発見を果します

日本列島は海に隔絶した離島として文明発展から取り残されることになります

河南省で5500年前の絹布が発見されており、養蚕が始まっていたことが伺われます

揚子江上流の四川地方で、5000~3000年前に栄えた三星堆さんせいたい遺跡が発掘されました。最も古い5000~4000年前は青銅器の出現以前で、石器時代の最晩期に該当します

三星堆遺跡があった地は三星蜀さんせいしょくと呼ばれ、女王がいたとされます

中国文明の中心となった黄河流域の中原ちゅうげんから見て、西(南西)の山中にいた女王は、道教で西王母せいおうぼと神格化されました

西王母と対をなし、東海の向こうにいるとされた東王父とうおうふの逸話は中国本土にほとんどなく、実態が不明のまま名前のみが残されました

推定5000~4000年前に日本の星神が三星蜀を訪れ、絹織物をまとった女王と会ったという言い伝えが、地上における道教の東王父/西王母神話と、天空における天の川伝説(牽牛/織女)伝説となりました

天の川伝説道教神話
主人公牽牛/織女東王父/西王母
舞台天上地上
居住地織女は天帝がいる側。
牽牛は天の川の対岸
西王母は崑崙山こんろんさん。東王父は三神山
初出時期の年号を記した詩に
織女の名がある
いんの亀甲文字に
西母の名がある
伝承内容中国では織女の詩歌が、
日本では牽牛の詩歌が多い
西王母は逸話多数で、漢の武帝
に桃を贈った伝説が有名。
東王父は名前だけで実態不明

※漢代に伝承が整理され、現在に伝わるストーリーとなった。また、牽牛と東王父、織女と西王母の結びつきも明確化された

※天の川伝説には異説が多数ある。天女を追った地上の若者が牛皮を纏って天上に登った、牽牛(牛郎)が天の川の西で織女が東にいた、織女は天帝の孫娘だった、織女が天の川を渡って牽牛に会いに行く、カラスが天帝の伝令を間違えて年に一度しか会えなくなった、等々のストーリーもある

天の川伝説も東王父/西王母神話も、黄河文明で文字が発明された3500年前には、既に伝説化していた超古代伝説と言えます

ただし、牽牛-東王父も織女-西王母も、中原には居なかったことが見てとれます

普及範囲を見ると、宗教的色彩が薄くおとぎ話化された天の川伝説の方が広く、道教の東王父/西王母は中国の土着信仰という趣きです

英語でもStar Festivalはキリスト教の祭典ではなく、七夕祭り(中国音でQixi Festival)を指します

周と春秋戦国時代

「酒池肉林」の逸話で悪名が高い殷の紂王ちゅうおうを武王が討ち、しゅうが建国されます(紀元前1046年頃)

周は各地の諸侯を王を任命しましたが、諸侯の独立性は高く反乱が続きます。紀元前771年に、建国時の首都西安から洛陽に遷都し、西安が首都の時代を西周、洛陽の時代を東周と区別します

東周以降は戦乱が続き、春秋戦国時代と呼ばれます

百を超える国の中からしんちょうかんえんせいが台頭し、戦国七雄と称されました

七雄の他にも、孔子の出身地で宰相を務めたや、「呉越同舟」の故事で知られるえつといった国もありました

東岸の斉と西端の秦は地の利を得て強国化し、斉王が東帝、秦王が西帝を称したこともあります(紀元前288年 斉秦互帝)

沿岸部の斉や呉、越では航海術が発達し、大規模な海戦も行われました。紀元前473年に滅亡した呉や、紀元前306年に滅亡した越の遺臣が東シナ海を超えて日本に逃れたという伝承があります

長江流域は稲作が盛んであり、呉や越が滅亡した2500年前頃に、日本に水田稲作がもたらされたという説が有力です

稲の伝来
出典:豊橋市図書館/とよはしアーカイブ

※水田稲作の伝来は朝鮮半島を経由する北方ルート、長江下流域からの直接ルート、福建省から南西諸島を経た南方ルートの3つが想定されており、現在は直接ルートが主流だったと考えられている

※稲自体は、陸稲として6000年前頃の縄文時代から栽培されていた

陰陽家鄒衍すうえんの世界観

山東半島の斉では開明的な学問が発達し、首都臨淄りんしには諸国から弁論家が集まりました(諸子百家)

春秋時代に魯から斉に亡命した孔子(BC552-479)の弟子達が儒学を発展させます。儒学をまとめた孟子(BC372-289)や、陰陽家の鄒衍(BC305-240)も臨淄で学を修めました

現代の風水にも通じる五行説を提唱した鄒衍は、海に開かれた斉の国の人らしく、中国も大きな世界の一部に過ぎないと論じました(大九州説:日本の九州の地名の由来とされる)

鄒衍はまた、東海の向こうには神仙が住まう三神山(蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛州えいしゅう)があると訴えました

海岸沿いの呉越や斉では、海の東の日本は、伝説に彩られながらも身近な存在だったのかもしれません

参考文献


地球歳差運動

コラム:七夕伝説と地球歳差さいさ運動

地球の首振り運動により、自転軸を指し示す極星は、およそ2万6千年周期で入れ替わります

現在の北極星はこぐま座ポラリスですが、牽牛と織女が会ったと思われる5千年前はりゅう座トゥバンが極星でした

なお、牽牛星アルタイルと織女星ベガに関して、常にベガが北にあると言えますが、天の川を挟んだ東西関係を定めることはできません