第一部 初代牽牛 海面上昇により中国史から失踪 

第三章 東海に消えた牽牛を探せ

嬴政えいせいの皇帝即位

秦の嬴政は、13歳で秦王となってから26年間で韓・・楚・趙・を滅ぼして中原を統一し、紀元前221年に皇帝を名乗ります(秦始皇帝)

嬴政は、伝説の三皇五帝を凌ぐ支配領域と統治体制を築いたと自認していましたが、皇帝就任にあたり重大な問題が残されていました

三皇五帝より古い言い伝えで、水域の東に天命を負った中華皇帝が存在するという七夕伝説です

徐福じょふく派遣

始皇帝は、人心を惑わすとして方士ほうし(道教学者)や儒家を大量に粛清しましたが、10年の予備調査期間を掛けた徐福に対して、進捗の遅さに憤りつつも東海へ派遣しました

不老不死の妙薬を求めたという理由が表向きですが、冷徹なリアリストである始皇帝が、そのような迷信を信じていたとは思えません。生前に自らの陵墓を作っています

※当時の中国では王が生前に自分の墓を作る習わしだった。嬴政も、皇帝を名乗る以前、秦王になってすぐ造営に取り掛かった

東方三神山(蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛州えいしゅう)にいると噂される東王父が実在するか否か確かめる必要があったのです

神仙捜索の意図もあったと伝えられていますが、その真意を表立たせることはできませんでした

道教の最高仙 東王父=伝説の中華皇帝 牽牛が実在するらしいと言ってしまえば、自らの皇帝就任の正当性を失いかねないためです

徐福は予備調査で精度の高い存在情報を掴んでいたようです。紀元前100年頃に成立した司馬遷しばせんの史記によると、始皇帝は徐福の言葉を信じて渡海事業を後援したとされます(史記 始皇帝本紀)

当時、その逸話は広く知られており、漢武帝の頃の伍被ごひが、徐福が海中の大神と会い蓬莱山に行ったと始皇帝にうそぶいた、と語った逸話が史記の淮南衡山わいなんこうざん列伝にあります

始皇帝は4回沿岸視察を繰返し、3000人の若い男女と多くの技術者を引き連れた徐福の船出を直接見送り、その帰路に急死します

徐福の行方

始皇帝と徐福の間は、信頼関係で結ばれていたわけではありません。徐福の同僚の方士は粛清されたり、逃亡しています

そんな徐福が、進捗の遅さを叱責されつつも、予備調査から本航海まで至ったのは、始皇帝に信憑性が高い情報をもたらしたためと考えられます

史記の中で、後代の人である伍被は、徐福が虚言を弄したかのように語ったとされますが、当の始皇帝自身は徐福の言葉を信じたのです

徐福にとって、事業を成功させなければ粛清の恐れがあります。ところが、始皇帝が陵墓造成者に与えた報酬は、口封じのための生き埋めです。事業が成功しても失敗しても、用済みになったら処刑されるのであって、早いか遅いかの問題でしかありません

ならば東海派遣は千載一遇のチャンスで、逃亡の一手です。日本に到着した徐福は、暴虐の自称皇帝嬴政えいせいから寝返って、東海遠征の野望を真の中華皇帝 星帝に伝えた可能性が十分ありえます

日本各地の徐福伝説

始皇帝直々の見送りを受けて出航した徐福の行方は、明らかではありません

しかし、日本には九州から津軽半島まで、離島を含めて広い範囲に徐福伝説が残されており、実際に来航していた可能性が濃厚です

三重県熊野市波田須では秦の貨幣(半両銭)が出土しており、徐福が持ち込んだとされます

※現代の中国では、徐福は日本に上陸し、後の神武になったという説が主流

その時以降、中国の自称皇帝から正統な中華皇帝位を守るために星帝と徐福が協力し、息をひそめながら中国の政情を伺うこととなりました

亡命者である徐福には、中国の追跡から逃れる動機がありました。徐福から始皇帝の野望を聞いた星帝も、捜索から身を隠す動機が生じて、両者の思惑が一致したのです

東面する陵墓と兵馬

為政者が本拠地を離れると、現代でもクーデターの恐れが高まります。移動速度や情報伝達が遅い古代では、なおさらハイリスクな行為でした

そこまでして始皇帝を沿岸視察に駆り立てたのは、東王父が実在するならば自らの皇帝位が反故になるという疑念だったのではないでしょうか

始皇帝は単に沿岸視察を行っただけではなく、渤海沿岸の碣石けつせきや黄海沿岸の瑯邪台ろうやだいに離宮を造営し、首都咸陽かんようから真東の連雲港れんうんこうに秦国東門を置きました

沿岸の拠点作りの最中に急逝した始皇帝は、本拠地咸陽に近い墳墓に埋葬されました

生前に作った陵墓は、万に及ぶ兵馬像ともども東を向いています

兵馬俑
【Photo by acworks from 写真AC】 

兵馬俑へいばようは西暦1974年に、井戸を掘っていた住民により偶然発見されました。史書に記載されていないため、誰も存在を知らなかったのです

始皇帝以後の中国皇帝の陵墓は全て南面していますが、始祖である始皇帝自身は、天(北辰)を背負った形にはしていません

定説では、かつて戦った中原の国々を睨んでいると言われます。秦王時代に造営を始めた時は、その意図だったのかもしれません。しかし、中原を征して皇帝位に就いてからも、陵墓の向きを変えませんでした

中原の覇者となり皇帝を名乗っても、瀛州えいしゅう(日本の雅号がごう)の東王父の不在を確認するなり、実在するならば服させるなりしなければ、天命を受けたと確証することができなかったのです

咸陽の都には、蓬莱と瀛州を模した蘭池らんちという庭園を造成しました

陵墓が東向きのままなのは、造営開始当初の中原睥睨へいげいの意図から変わって、中原のさらに向こうの瀛州を睨む必要が生じたためでした

水銀への執着

始皇帝が不老不死の妙薬として水銀に期待していたことは知られています。有毒な水銀を飲んだことで、却って命を縮めてしまったという見解もあります

巡幸のために専用道路まで整備したような事業実績を見ると、堅実に準備を重ね壮大な目的を遂げているのが始皇帝です

皇帝位に登って神仙思想の迷妄に憑りつかれたかのように評されていますが、水銀の有毒性を誰よりも良く知っていたと思われます

生前に作った陵墓には、侵入者を防ぐための水銀の堀が巡らされていると言われます

辰砂
水銀鉱物としての辰砂しんしゃ。精製して液体水銀、鎮静剤や防腐剤(漢方薬の丹砂たんさ)、顔料等として利用される

始皇帝は、肉体の不老不死を夢見た部分もあったでしょうが、水銀製剤を自ら内服したのは、それが主目的とは考え難く思われます

例え妙薬によって老いや病を防げたとしても、首を刎ねればどんな肉体でも息絶えます。自らの手で直接、あるいは指令によって間接的に刎ねた首は一体いくつあることでしょうか

刎頸以外にも撲殺、圧殺、焼殺、溺殺、埋殺、毒殺。始皇帝が行った殺傷方法を、現代人が数え上げることは難しいほどです

おそらく、水銀の池に生きている人間を突き落として溺死させ、有毒性を確かめていることでしょう

綿密な計画性をもって、水銀製剤の内服生体実験も重ねていたと思われます(人命軽視を基盤とした爆発的な開発力は、現代中国と変わりません)

始皇帝が自ら水銀製剤を飲んだのは、肉体の不老不死を信じたためとは考えられません。死後の肉体の腐敗を防止することで、霊魂の不滅を叶えようとしたのです

始皇帝には生前成し遂げられなかった事業がありました。死してなお念願を果たすために、自らの遺体を水銀漬けにしてミイラ化させている可能性があります

※始皇帝陵は項羽により暴かれたものの、現代的な発掘調査はまだ行われていません

終わりなき東征

嬴政えいせいの征服事業は、中原平定で完了していませんでした

兵馬像を作って埋めたのは、帝王の死後も身の周りを守るため兵を道連れにする殉死の習慣を止めるためだったと言われています

しかし、口封じのため墳墓造成者を生き埋めにしたという本末転倒ぶりから、始皇帝に人命尊重の配慮があったと思えません。存在が伏せられた兵馬像を作った陶工たちは、一体どのような扱いを受けたのでしょうか

中原を征して皇帝となった嬴政にとって、生身の人間である地上兵を、死後の世界に引き連れて行って身の周りを守らせても意味がないことでした

身辺警護の兵ならば四方を固めていたことでしょう。征服事業が完了していなかったので、攻めに出る必要がありました

生前に東海遠征して東王父とまみえることがかなわずとも、鬼籍きせきに入って、不滅の霊魂でもって、天界で牽牛を征するための天上軍が大量の兵馬像だったのです

中原西端の咸陽を首都とした嬴政の東征事業

征服対象進捗状況
秦王中原6ヶ国紀元前221年達成
皇帝瀛州の東王父4回目沿岸視察で徐福見送り後に急死(紀元前210年)
徐福は帰らず行方不明
天界天の川東岸の牽牛天上軍を背後から指揮し今なお行軍中(1974年判明)

秦王嬴政は、皇帝となってからも、生前死後に関わらず常に東面している必要がありました

裏を返すと、皇帝を名乗ってはみたものの、天命を負って南面することができないまま現世を去ったことを、陵墓と兵馬像の向きで告白しています

始皇帝の瀛州東征計画
生前に瀛州の東王父征伐が叶わなかった嬴政は、死後に天界で牽牛を討つべく、今なお兵馬とともに東へ進軍中である

漢代の七夕伝説

紀元前210年に始皇帝が逝去すると、わずか4年で秦は崩壊し、項羽こううとの対決を制した劉邦りゅうほうが漢を建国します

王莽おうもうによる新(西暦8‐23年)を挟んで、劉家漢朝は400年の長きに渡って続きます

軍事的脅威であった西方の匈奴きょうどを下した7代武帝(紀元前141‐87年)の治世下で、前漢は最盛期を迎えます。武帝は朝鮮半島北部も平定して、楽浪らくろう郡を設置しました

武帝は神格化され、西域の崑崙山こんろんさんから来た西王母に不老不死の桃(蟠桃ばんとう)を贈られたという伝説が残されています

武帝に桃を贈る西王母
西王母から不老長寿の桃を贈られたとされる武帝は、自らを東王父になぞらえたのだろうか

七夕伝説は、漢朝にとって身近でリアルなものであり、王宮に天の川を模した庭園が造られ、現代に伝わるような牽牛織女のストーリーが整えられました

漢の首都長安を流れる渭水いすいや、漢の国名の由来となった漢水かんすいといった河川が天の川に見立てられ、詩歌が盛んになります

牽牛織女を歌った詩の一例として、漢代の作と考えられる『文選もんぜん』収録の古詩を挙げます。(『文選』自体は6世紀前半の南朝りょうで編纂)

迢迢牽牛星 皎皎河漢女
繊繊擢素手 札札弄機杼
終日不成章 泣涕零如雨
河漢清且浅 相去復幾許
盈盈一水間 脈脈不得語 
牽牛星は遥かかなたにあり、こちら側では織女が煌々と輝いている。
織女はきゃしゃな手でさっさとはたを織るが、
終日ひねもす織ってもあやができず、雨のように滴る涙で濡らすばかりだ。
天の川は清く浅くて、いかほどの距離もないのに。 
ただ一筋の水があるだけなのに、言葉を交わすこともできない。

天の川の東にいる伝説の中華皇帝 牽牛は、道教でいう瀛州の東王父として実在するらしいという噂は、公然の秘密としてずっと続いていたのです

史書中の倭国

正史以外で、後漢の1世紀頃に王充が著した論衡ろんこうに、古代王朝である周の時代(紀元前1000年頃)に倭人が薬草を献じたとあるのが、倭国に関する最古の記述です

中国正史の中に初めて倭が登場するのが、西暦80年頃に班固はんごによってまとめられた漢書です

前漢(紀元前206‐8年)代の記録である漢書地理志の中に、「楽浪らくろう海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもって来たりて献見すと云ふ」とあります

具体的な記述としては、後漢(西暦25-220)代の記録である後漢書に、西暦57年に奴国なこくに印を授かったという記載があります。江戸時代に福岡県の志賀島から出土した、漢委奴国王印かんのわのなこくおういんが該当すると考えられています

倭国の記述がある主な中国正史

主著者成立記述対象主な記事東国の記述
漢書地理志班固はんご1C後前漢(BC206-AD8)百余国に分かれ時々入貢なし
後漢書倭伝范曄はんよう5C前後漢(AD25-220)奴国使入貢と印綬下賜
徐福が澶洲せんしゅうに留まる
倭国大乱
特記なし
(地理情報を魏志に依拠)
魏志倭人伝陳寿ちんじゅ3C末三国時代(220-280)邪馬台国使入貢と
初の中国使者往還
倭国は南北に長い
女王国の東は国名不詳
その南に山海経国々
宋書倭国伝沈約しんやく5C末南朝宋(420-479)倭の五王武の毛人55国東征
隋書倭国伝魏徴ぎちょう7C中隋(581-618)第一回遣隋使(AD600)
第二回遣隋使(AD607)
東西5ケ月の幅
東が高い
旧唐書倭国劉昫りゅうく10C中唐(618-907)倭国王の姓阿毎あめ東西5ケ月の幅
旧唐書日本日本国号への変更東西5か月の幅
東の山外の毛人国
新唐書日本欧陽脩おうようしゅう11C中阿毎氏初主は天御中主で筑紫に居住
神武の大和遷都と以降の天皇号列挙
東西5ケ月の幅
東の山外の毛人国
蝦夷人同行
宋史日本国脱脱とおとお14C中趙宋(960-1279)日本書紀の列伝
律令制の五畿七道
陸奥出羽の国名
東の奥州の黄金
山外の毛人国
東の海島の夷人

魏志倭人伝

其の地には馬虎豹羊無し

西暦220年に後漢が滅びると、・呉・しょくで皇帝が乱立する三国時代となります

魏の支配下となっていた帯方たいほう郡(楽浪郡より分離)から、西暦240年に使者梯儁ていしゅんが遣わされ、邪馬台国の女王卑弥呼が倭王に任じられました(親魏倭王)。7年後には2回目の使者として張政ちょうせいが派遣されています

邪馬台国の位置ばかりが注目されていた魏志倭人伝ですが、実は人類史的にもっと重大なメッセージが隠されていました

倭国に上陸した使者は、牛馬虎豹羊鵲の6種の動物がいなかったと報告しています。後段には、猿ときじがいると記してあります

不在が報告された6種のうち、牛馬虎豹羊は、有益な家畜や聖なる猛獣として特に引っ掛かる点はありませんが、鵲だけは記載された理由がわかりません。圧倒的な場違い感を漂わせています

孫権そんけんによる東征軍

魏志の記載が広く知られているものの、倭国に対して先に行動を起こしたのは呉でした。魏の使者に10年先立って、呉の孫権が西暦230年に東征軍を発しています

中国本土で三つ巴の激しい抗争をしていたにも関わらず、孫権は、皇帝就任翌年に1万の海軍を夷州いしゅう亶州たんしゅうに派遣しました。夷州は台湾島のことで、亶州は特定されていませんが、南西諸島あるいは日本本土と推定されています

三国時代の東アジア

呉の東征軍は夷州で3000の捕虜を鹵獲ろかくしたものの、疫病のため9000の兵を失い、亶州には至らず壊滅状態で帰還しました。軍を率いた衛温えいおん諸葛直しょかつちょくの二人の大将は投獄され、獄死します

惨憺たる結果に終わった呉の東征ですが、三国抗争の最中に、海を隔てて全く軍事的脅威となりえなかった夷州や亶州にわざわざ派兵したのは、いかなる動機があったからでしょうか

航海に長けた呉は当時、魏への叛心はんしんを抱いていた遼東半島の公孫淵こうそんえんと通じ、朝鮮諸国とも連絡して魏を海上封鎖する戦略だったと考えられています

また、南の交州こうしゅう方面に出兵し、現地人を鹵獲して兵員に繰り入れることも行っていました

魏の海上封鎖と兵員拡充という観点から、夷州と亶州にも出兵したと解すことができます。しかし、それのみではなく、孫権は徐福伝説を信じて、亶州(=伝説の瀛州の可能性)の不老不死薬を求めたと三国志呉書で説明されています

史記の中で、伍被は虚言とみなした徐福の言動ですが、始皇帝だけでなく孫権もまた事実と捉えていたのです

そして、始皇帝と同様に不老不死薬調達は建前で、三国のうち最後発で皇帝を名乗った孫権は、伝説の東王父 牽牛の中華皇帝位を奪取して、正統な唯一皇帝に就こうとしたのでした


コラム:カササギについて

鵲
Photo by Bob Kothenbeutel

カラスの近縁種であるカササギは、北半球に広く生息するありふれた鳥です

英語ではMagpie、学名Picaといいます

カラスより知能が発達しており、類人猿や象以外で、自分の鏡映像を自分と認識するミラーテストをクリアした唯一の鳥類です

声帯も発達しており、人間の言葉を覚えて話すことができます

カラス程群れずに、つがい単位で行動するため、余り害にもなりません

中国文化圏ではめでたい吉鳥とされ、西洋ではずる賢いいたずら者とされますが、日本では北部九州と北海道にしか生息しないため馴染みの薄い存在です

百人一首の「鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」という大伴おおとも家持やかもちの歌は、七夕物語の鵲橋じゃっきょう(かささぎばし)を踏まえたものです

家持は物語で聞き知っただけで、実物を見たことがなかったと思われます。カササギという名前から、サギの仲間と誤解されることがままあります

好奇心旺盛で何でもくわえて持っていってしまうため、ラテン語の学名Picaが転じて、異食症(食べ物でない物を食べてしまう)の英名Picaの語源となりました

一説には、進化すると「ピカ ピカ」と鳴く黄色いモンスターになると言われます


なぜ鵲の不在報告をしたのか?

歴代中国王朝で初めて倭国に上陸して帰国した魏の使者梯儁ていしゅん張政ちょうせいは、なぜその地に鵲がいないことを報告したのでしょうか?

※徐福は日本に渡ったものの、始皇帝の怒りを恐れて帰らず現地の王になったとされる

吉鳥とされるものの、いようがいまいが益にも害にもならない存在です。天竺てんじく孔雀くじゃくや伝説の鳳凰ほうおうといった聖なる瑞鳥ずいちょうでもありません

魏志には、倭の他に北東アジア6カ国の習俗が報告されています。わいに虎や豹がいることが記されていますが、倭人伝以外に鵲がいるもいないも言及されていません

わざわざ不在を記す理由がわからず、後年の写本に”鶏”と書き直してあるものがあります

そこから、鶏の誤記説という解釈が生まれました。本来””と書くべきところを、陳寿ちんじゅが編纂した原典の方が間違って””と書いてしまったという説です

鶏誤記説の難点

”鶏”と書いてある写本は、南宋時代の西暦440年頃に成立した後漢書倭伝です

後漢は魏より前の王朝ですが、史書が作られたのは魏志の方が150年早く、後漢書は魏志を基にしていくつかの情報が加筆や削除されたものです

南宋以降の書士の中に、なぜ鵲の不在報告が記されているか理解できず、”鶏”と書き直した者がいたと思われます

本来””と書くべきだったところを、原典(編者の陳寿自身か書士)が間違って””と書いてしまったという誤記説には以下のような難点があります

・一般⇔特殊の取り違え頻度:より特殊な””を、一般的な””と書き違えることはありえそう。逆に、より一般的な””を、わざわざ特殊な””と書き違えるミスは、個人レベルのヒューマンエラーとして起こりにくい

・国史のチェックシステム:私本ではない国史は、完成までに何重にもチェックされ、個人レベルのエラーが是正されるシステムを備えていると思われる。原典が成立する際、誤記説の”牛馬虎豹羊”ならば誰も咎めないだろうが、伝わるままの”牛馬虎豹羊”ならば、本当にそれでいいのか、何回も問い合わせが入ったと推測される

・倭国に鶏はいなかったのか:紀元前の弥生時代には、日本ににわとりが持ち込まれていた。魏使が西暦240年代に訪れた時には、普通に飼われていたと推測される(古代では、食用よりも時告げ鳥として公有される存在)

・使者の認識ミスの起こりやすさ:牛と馬の骨は長崎県の弥生時代遺跡より出土しており、実は倭国にいたものの、使者自身か尋ねられた現地人の認識不足だった可能性が高い。鶏に関しては、使者が現地人に尋ねなくても、鳴き声で容易に存在を確認できたはずである

以上のように、南宋当時の中国人書士が、原典に記されている”牛馬虎豹羊”は書き間違いで、本来”牛馬虎豹羊”のはずだったと憶測したならまだしも、今なお鶏誤記説を維持するためには、当時の倭国に鶏がいなかったか、あるいは、使者が鶏をいないと認識したかのどちらかを示す必要があります

特に、個人レベルのエラーをはじく国史のチェックシステムを考えると、魏志倭人伝の記載は「牛馬虎豹羊無し」で正しかったのだと判定することができます

つがいのカササギ
Photo by Inushita from 写真AC

牽牛不在報告

魏志倭人伝の使者が倭国で鵲の不在を確認したのは、牛とセットで、七夕伝説を手掛かりに牽牛の捜索を行ったためでした

牛のいるいないは、七夕伝説がなかったとしても、生活に重要な牧畜として記載されていたことでしょう

しかし、鵲がいないことの報告は、七夕伝説以外に理由を求めることができません

後漢書倭伝には徐福の消息が記載されています

倭国視察者にとって、近い昔(当時から見て400~500年前)の徐福に関する言い伝えと、超古代の七夕伝説の確認することがミッションでした

ただし、牽牛=東王父の実在性に関して、中国皇帝の正当性を失わせかねないため秦漢の時代より暗黙裡に扱われ、史書にも明記されませんでした

明示しないまま牽牛の不在を報告するため、倭国に鵲無しという、一見無意味な誰得情報が正規の国史に記されたのです

(Absence of) Magpie saved Japan

魏志倭人伝でのこの報告により、牽牛が(少なくとも倭国には)存在しないとのコンセンサスが形成され、以降の中国王朝では、東海の向こうの島への関心は薄れます

そもそも、東王父=牽牛が実在していそうだったら、雅号を用いて魏志瀛州えいしゅう伝となっていた可能性があります。その場合、敬意や羨望とともに征服の野心も向けられていたことでしょう

初めての実地検分報告で、その存在が否定されたため、卑称ひしょうの倭(=小さい)という呼び方が確定したと捉えることもできます

幸か不幸か、島に鵲が見つからなかったために、日本は倭と蔑まれ、漢民族の眼中から外れます

前漢代の紀元前133年、現在の山東省煙台市に蓬莱の地名が付けられたことに続き、南北朝時代の西暦487年、現在の河北省に瀛州郡が置かれ、伝説の神山は中国国内の現実の地名とされました

魏志が成立する前の孫権以降、モンゴル族の征服王朝である元以外に、この小さい島国に攻め込もうとする王朝はついに現れませんでした

参考文献

  • 史記 一(本紀上)/二(本紀下):吉田賢抗 著、明治書院 新釈漢文大系38/39、1973年2月/4月
  • 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝:石原道博 編訳、岩波文庫、1985年5月
  • 倭国伝:藤堂明保 他訳注、講談社学術文庫、2010年9月
  • 中国古代史研究の最前線:佐藤信弥 著、星海社文庫、2018年3月
  • 人間・始皇帝:鶴間和幸 著、岩波新書、2015年9月
  • 始皇帝大全 ビジュアルブック:藪内和利 編、ぴあMOOK、2020年5月
  • 徐福 霧のかなたへ:程天良 著、池上正治 訳、第一書房、2000年1月
  • 古代日中関係史:河上麻由子 著、中公新書、2019年3月
  • なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか:石平 著、PHP新書、2018年1月
  • 秦漢時代庭園の神仙施設:河原 武敏 著、日本庭園学会誌、2004 年12月